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長沼町の歴史・大正時代(大正元年~大正14年)(1912年~1925年)

明治45年・大正元年(1912年)

  • 小史 水害のため長沼土功組合水路等が崩壊、また農作物の被害多く開田遅々として進まず。
  • 小史 馬追橋架替のため角田村と初の両村組合設置する。
  • 6月 春以来6月中旬にかけて千歳川沿岸氾らんし、滞水長く、春季作付不良かつ農作物腐れ、収穫皆無となる。
  • 9月 市街地防火用水路完成する。(土功組合水路を利用)
  • 10月9日 馬追橋墜落架替工事完成(1万4,700円)する。
  • 11月 市外電話布設。

大正2年(1913年)

  • 小史 8月水害に加えて例外となり、みぞうの凶作の年に加え伝染病またまん延し、最悪の年となる。
  • 4月 長沼山火予防組合設立、区域を9に分け馬追山ろくの8青年会をもって組織する。
  • 5月31日 村会議員定期改選定数16人を20人に増員しこの日1級、翌6月1日、2級選出される。
  • 8月27日 暴風雨のため4・8・9・14・15・17の部落洪水、皇室より367戸に救じゅつ金下賜される。
  • 11月 長沼火防組合設立(組合長中村弥三郎)50余円で警鐘及びはしごを建設する。
  • 農作物、水田1,155町歩僅か99石で収穫皆無に等しく畑作物も合わせて全村耕作面積の平均年収65万円に対し21万円と3分作となった。
  • 伝染病がまん延、腸チブス24人内死亡2人、ジフテリヤ21人内死亡3人を出す。

大正3年(1914年)

  • 小史 大正2年の凶作の為本年もその対策に忙殺され、稲作種籾不良のため発芽せず、空田3分の1にのぼる。かつ秋季米価暴落し、2年続き農民は窮乏する。
  • 4月 北長沼巡査駐在所設置される。
  • 5月 村有林落葉松約5万本山火により焼失する。
  • 8月1日 歩兵25連隊本村通過し村民大歓迎する。
  • 水稲種籾不良のため発芽しなかった5百余町歩に対し急きょ稗440町、そば及び大豆83町を補植する。

大正4年(1915年)

  • 小史 過去5ヶ年にわたり凶作・水害の年に比して、村勢全般に小康を保ち、かつ新天皇即位御大典の慶祝事業として、盛大な品評会や記念植樹を行なう。
  • 11月10日 大正天皇御大典礼、村は記念事業として防風林植樹5か年計画を立てる。本年62円支出、大正5年6円支出、各学校は、記念植樹をする。
  • 大礼につき養老の沙汰あり、木杯、酒肴料を長寿者に下賜される。
  • 本村90歳以上5人、80歳以上33人。

大正5年(1916年)

  • この年開拓30年、開村25年にあたり記念事業などを行われる。
  • 村史、400部(250円)発行する。
  • 5月8日 夕張川洪水、畑250町浸水、5年前に架替えた馬追橋損傷。再び長沼、角田両村組合設立(工費6,182円、内、地方補助2,761円、残は両村等分負担とす)される。
  • 舞鶴橋架替。本村399円、恵庭171円分負担する。

大正6年(1917年)

  • 小史 豆類等価格上昇し一部農村好況なるも物価高により村費を圧迫し、全体として村勢低下に向う。
  • 1月1日 現在市街地戸数164戸、852人。
  • 1月27日 両村(長沼、角田)組合による馬追橋災害復旧工事着工。3月27日完成する。
  • 5月8日 夕張川及び千歳川氾らん(床上浸水122戸床下205、農地浸水1,025町、救助をうけたる戸数(15戸)
  • 4月南尋常高等小学校を中央尋常高等小学校と改称する。

大正7年(1918年)

  • 本年も異常な物価高により村財政窮迫し、特別会計基本財産の蓄積停止し、地方税戸数割附加税を2期目から制限外(本税1円につき3円92銭)を追加課税する。
  • 流行性感冒(スペイン風邪)が流行し、羅患する者多く翌8年にかけて死者85人を出す。(なお、このスペイン風邪は世界中で6億人被患2千百万死亡、日本3百万被患39万死亡)
  • 幌内信用組合設立される。(8月)
  • ホロナイから千歳村字ホロカに通じる道路開削される。

大正8年(1919年)

  • 村会議員改選、由仁と村界問題解決する。
  • 夕張川新水路計画が道第一期拓殖計画改正拡張によって実現の緒につく、9月洪水となる。
  • 村吏員、3役を除く書記7人、書記補1人、臨時雇1人となる。
  • 3月25日 長沼村公設消防組合設立決定し市街地火災予防組合より器械置場一棟及び消防器具67点の寄付をうける。(組長中村弥三郎副斉藤新四郎)
  • 11月19日 第一小学校。西1線北13番地に位置変更し移築することが認可となる。(大正11年竣工)

大正9年(1920年)

  • 小史 夕張川改修工事着工、用地買収始まり、馬追橋左岸に栗山工場設置、長沼産業組合設立(翌年1月認可)される。(9月27日)
  • 小史 道路法による村道認定総延長82里10町56間。
  • 小史 舞鶴橋の修繕及び架替費は長沼村7分、恵庭村3分負担と決定する。(4月1日道路法認定による)
  • 2月 北海道殖産銀行長沼派出所設置される。
  • 7月1日 幌向村木詰地区、道庁告示第417号をもって、長沼村に編入9部に属する。
  • 10月1日 第一回国勢調査、村は曠古みぞうの事業と評価する。(調査員44人予備員9人)
  • 近年まれにみる豊作年であった。

大正10年(1921年)

  • 小史 中小、長沼小、第一小、長沼村役場庁舎などの増築、移築統合、移築、新築計画村費支出増大する。
  • 小史 物価暴落により農村の景況悪化する。
  • 小史 長沼小学校東2線北17番地より東3線北17番地に位置を変更し、上長沼尋常小学校を併合して建設する。
  • 小史 第一小学校西4線北12番地より西1線北13番地に位置を変更して建設する。
  • 小史 長沼市外に電話架設、村も600円支出、架設する。
  • 小史 電灯つく、村公用として26円支出する。(発電は由仁村の夕張電灯KK由仁火力発電所)
  • 11月22日 庁舎予算2万円可決する。
  • 中央小学校に屋内運動場完成する。(本村最初の屋内運動場である)

大正11年(1922年)

  • 夕張川はん濫し馬追橋落橋、渡河中の渡船転覆し、水死者8人、馬一頭でき死する。
  • 5月3日 役場位置、本町区から現中央区に変更認可される。
  • 7月21日 道庁告示571号で現札夕線が準地方費道(271)として認定される。(夕張-角田-由仁-長沼)
  • 9月2日 道庁告示673号で現恵庭-栗山線が、大正9年に由仁経由-岩見沢-長沼線であったものをこのとき栗山経由準地方費道(35)と変更される。
  • 11月12日 南長沼土功組合認可される。(去る5月7日創立総会を開き諸費2千円を投じて猛運動をしてきたもの許可面積2,866町余)

大正12年(1923年)

  • 小史 新役場庁舎着工する。農業振興施策が活発化する。
  • 小史 夕張川昨年より2年連続はん濫し被害多く、築堤問題論議激化する。
  • 小史 関東大震災に対し救援活動活発化する。
  • 小史 役場庁舎年末完成する。

大正13年(1924年)

  • 中央小、第三小、第二小、舞鶴小各校舎腐朽甚しく改築のため計画に入る。(予算6万6千円)
  • 本年村民に臨時種痘を行なう。(受種者9,100人)
  • 3月31日 夕張鉄道起工(若菜辺において)する。
  • 7月11日 長沼神社、村社に昇格し、9月7日昇格奉告祭を行なう。(社掌佐藤作蔵)なお村は予算の中に初めて神社費の款を設けて28円を計上し、この他に、祭典費486円を支出する。また、神社周辺の防風林敷地4町4反余を境界用地として払下方出願する。

大正14年(1925年)

  • 中央小学校外大幅改築完成する。
  • 南長沼土功組合工事着工する。
  • 第二回国勢調査、村会議員選挙行われる。
  • 歳出中主なるもの中央小、第三小、第二小、舞鶴各小学校改築費6万6,377円。
  • 道路延長準地方費道16キロ余、村道330キロ、橋梁121ヶ所。
  • 長沼商業組合、工業者を併合して長沼商工会と改称される。(会頭河合浅次郎)
  • 夕張鉄道延長計画に対し本村中央部を通過して広島に通ずるよう道庁に請願書を提出する。

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